【角川まんが日本の歴史】藤原道長は頂点に立った時に何と歌った?! ~3巻「雅なる平安貴族 ●平安時代前期」
お疲れ様です。あかいあくまです😈
『角川まんが学習シリーズ 日本の歴史』より 第3巻「雅なる平安貴族 ●平安時代前期」を取り上げて、内容をご紹介します!
『角川まんが学習シリーズ 日本の歴史』全体に関する記事も書いていますので、よろしければご覧ください。
以降はあらすじとなりますので、本の内容を知りたくない方は、読まないでください。本を読んだ感想はあらすじの後、この記事の最後に書いています。
あらすじは、実際に本を読んだあかいあくまの解釈で書いています。解釈の誤りがある場合は、ご了承ください。
目次
第3巻 雅なる平安貴族 ●平安時代前期 あらすじ
第1章 桓武天皇と平安京 あらすじ
奈良時代に桓武天皇は2回の遷都を行いました。1回目の遷都は784年で平城京から長岡京へ。
当時の都である平城京では、仏教勢力が政治に介入し、混乱していました。この状況を変えるため、桓武天皇は長岡京への遷都を決意したのです。
2回目は794年のことで長岡京から平安京。1回目の遷都からわずか10年後のこと。
造営使として長岡京への遷都に尽力した藤原種継(たねつぐ)が暗殺されます。その首謀者の一人として疑われた桓武天皇の実弟である早良親王(さわらしんのう)は淡路島へ流刑となり、移送の途中で亡くなってしまいました。その後から都で流行病や洪水などが起こり、早良親王の祟りと恐れられます。そこで桓武天皇は再び決断し、平安京へと遷都したのです。
征夷大将軍の坂上田村麻呂による陸奥の国(現在の東北地方)にいた蝦夷(えみし)との戦い。坂上田村麻呂はとても勇敢な武将で、桓武天皇からの指示により陸奥の国を平定していきます。801年に蝦夷の首長アテルイとの戦いに勝利。その後も戦いは続いたが、平安時代後期になると蝦夷は朝廷に従うようになり争いは収まっていきました。
奈良時代の仏教は政治に介入していたため、桓武天皇は新たな仏教を作る必要性を感じていました。
そこで、遣唐使として、最澄や空海を唐へ送り込み、仏教を学ばせることに。帰国後、最澄や空海はそれぞれ天台宗、真言宗という新しい宗派を作り、新たな仏教を広めていくこととなります。
政治の世界では藤原家が勢力を伸ばしていた。藤原家は藤原北家、藤原式家、藤原京家、藤原南家の4家に分かれていて、血族同士の藤原家内で権力争いが起こっていました。
藤原北家の藤原冬嗣(ふゆつぐ)や藤原良房(よしふさ)は権力争いに勝利し、藤原良房の娘を文徳天皇の妻とし、その第四皇子の惟仁親王(これひとしんのう)は清和天皇となります。清和天皇は9歳で即位し、良房が政治の実権を握ることになります。
これが藤原家による「摂関政治」の始まりです。
第2章 貴族政治の発展 あらすじ
宇多天皇のときに、藤原良房の養子として後を継いでいた藤原基経(ふじわらのもとつね)は日本で初めて「関白」となりました。宇多天皇は基経に対し、「宜しく阿衡の任を以て、卿の任となすべし」と手紙を書くが、「阿衡の任」という表現が気に入らず、基経は政務を半年もの間放棄しました。
この事件は「阿衡事件」と呼ばれ、基経の権力が天皇よりも強いことを世に知らしめます。
基経は菅原道真(すがわらのみちざね)からの手紙によりようやく天皇を許しますが、宇多天皇はこの事件を屈辱に感じ、以降は菅原道真を重用するようになっていきます。
菅原道真は伝統となっていた遣唐使を、朝廷の財政難などを理由に廃止を訴えます。藤原基経をはじめとする藤原北家ばかりが権力を持つようになっていましたが、菅原道真の藤原氏の権力に負けない様子に、宇多天皇は信頼を深めていきます。宇多天皇は醍醐天皇に譲位し、上皇となります。醍醐天皇に対しても道真を重用するように伝えていました。これに危機感を持った藤原基経の息子・時平(ときひら)は、菅原道真が謀反を計画していると醍醐天皇に伝え、菅原道真は大宰権帥(だざいのごんのそち)という太宰府でほとんど権限のない身分となってしまいました。
太宰府でわびしい生活をしながら、菅原道真は亡くなってしまいます。道真の死後、京では異変が相次ぎ、人々は道真の怒りが原因と感じます。道真公の怒りを鎮めるために、京の北野に北野天満宮を建て、道真は神として祭られます。道真は今でも「学問の神様」として敬われています。
遣唐使が廃止されると、日本独自の国風文化が発達します。
紀貫之の『土佐日記』はこれまで女性が使っていた仮名文字を使って書かれました。また、道綱母(みちつなのはは)の『蜻蛉日記』、紫式部の『源氏物語』など女流作家の作品も誕生し、その後の日本文学に大きな影響を与えました。
仏教では、これまで貴族のものだった浄土信仰が庶民にも広がります。僧の空也は「南無阿弥陀仏」と唱えれば誰でも極楽に行けるということを説きました。
奈良時代の墾田永年私財法により、自分で耕した土地は自分のものにできましたが、税が重く、生活は貧しいものでした。そこで、農民たちは自分たちの土地を有力な貴族の荘園としてもらいます。朝廷も貴族の土地に対しては課税ができず、貴族は農民から年貢を取ることができたため、荘園が広がっていきました。これを寄進地系荘園と呼びます。
第3章 藤原道長と摂関政治 あらすじ
藤原家ではこの時代、娘を天皇に嫁がせて皇子が生まれると、その子を天皇に立てて、幼いころは摂政、大きくなると関白という天皇を補佐する地位に付き、政治の実権を握っていました。
藤原道長(ふじわらのみちなが)は平安京で栄華を極めました。
もともと道長には道隆(みちたか)という兄がおり、天皇へ娘を嫁がせていました。また、その嫡男に伊周(これちか)がおり、権力を握っていました。道隆が急死した後、すぐ下の弟の道兼(みちかね)が関白となりましたが、はやり病で亡くなってしまいます。
次の関白を伊周とするのか、道長とするのかという状況の中で、道長は自らの姉であり、一条天皇の母である東三条院詮子(ひがしさんじょういんせんし)に会いに行き、関白として自分を推薦してもらうように働きかけます。これにより道長は関白となりました。
伊周は道長を敵対視し、二人の争いが表面化します。しかし、伊周が恋愛関係のもつれから花山法皇へ矢を射ったことを理由に大宰権帥(だざいのごんのそち)の地位に落とされてしまうことで事態が収束しました。
一条天皇には中宮として定子がいましたが、道長は娘の彰子を入内させます。しかし、一条天皇に気に入られていたのは定子でした。道長は中宮の定子、皇后の彰子をともに天皇の制裁として、一帝二后が誕生します。その後定子が亡くなることで、彰子は帝の心をつかんでいきます。
彰子に仕えていたのが、源氏物語で有名な紫式部です。紫式部は源氏物語を書いていましたが、お金が無く源氏物語の続きを書くことができずにいました。そんな時に宮中で仕える話が来たのです。これにより紫式部は物語の続きを書き、現代にも残る源氏物語を完成させました。
他にも、彰子に仕えている間に『紫式部日記』を書き、宮廷の人物や出来事を後世に伝えました。
彰子は一条天皇との間に敦成親王(あつひらしんのう)が産まれます。敦成親王は9歳の時に後一条天皇となり、道長は天皇の祖父として摂政となり、政治の実権を握ることになります。彰子のほかにも、次女の妍子(けんし)は三条天皇、三女の威子(いし)は後一条天皇の中宮となり、道長の娘から三人も中宮が出ました。
道長は天皇との血縁関係により政治の実権を握る摂関政治が頂点に達し、以下のような歌を歌います。
わが世とぞ思う望月の欠けたることもなしと思えば
藤原道長
第4章 栄える国風文化 あらすじ
左大臣の家に女房として使えることになった女性の目線で、平安貴族の暮らしが描かれています。
女性の服装は十二単、琴や琵琶などの楽器、貴族の屋敷の様子、双六や囲碁、蹴鞠などの遊びなど優雅な暮らしをしています。
天皇や身分の高い貴族の子孫などが地方へ下り、その土地の豪族などを家来としていました。
豪族は武力で権力者に仕え、集団を作っていきます。これがやがて武士団へと発展していくことになります。
力を持っていた武士は、反乱を起こしていきます。平将門の乱や藤原純友の乱などが代表的です。
これらは承平、天慶の両元号の時代に起きたことから、承平・天慶の乱と呼ばれます。
地方では力を持った豪族がおり、朝廷の地方での力は弱まっていました。
平忠常の乱が起きた際には、源頼信が鎮めます。以降は関東の豪族は源頼信の支配下となりました。朝廷が地方を抑えるのに武士の力が欠かせなくなっていました。
1052年道長の別荘に平等院が建てられ、翌年には鳳凰堂も完成します。1068年後三条天皇が即位します。
後三条天皇は藤原氏を祖父に持たない天皇で、これまで藤原氏が権力を握ってきましたが、政治改革を進めました。その後の白河天皇も自ら政治を行います。
藤原氏全盛の時代は終わり、院政と武士の時代へと変わっていきます。
第3巻の注目人物
第3巻のあらすじはいかがでしたでしょうか?
ここでは、第3巻に登場する様々な人物から、あかいあくまが印象に残った3人について書いていこうと思います。
桓武天皇
第3巻の最初に登場する人物で、奈良時代が終わり平安時代が始まる、平安京への遷都を行いました。
2回の遷都により平安時代の始まりを作った天皇で、第3巻では奈良時代の仏教勢力から政治を改革しようという姿勢が感じられました。
正直なところ、歴史に疎いあかいあくまは、桓武天皇のことを存じ上げませんでした。
政治の改革者として国をよくしようと頑張った方なんだなということがわかりました!
奈良時代は、710年に平城京に都が移ってから、平安京に遷都するまでの84年間と考えると、長い間の仏教勢力とのしがらみが多かったでしょうし、相当大きな改革をしていく必要があった、ということが想像できます。
途中で参謀的な存在の藤原種継が殺されてしまいながらも、遷都や様々な改革を行いました。しかし、自分の理想には届かないと感じており、もの悲しそうな表情ののちに亡くなってしまうシーンは感情移入してしまいます。
菅原道真
宇多天皇に重用される優秀な方でしたが、藤原時平に謀反の罪を着せられ、醍醐天皇に大宰府へ飛ばされてしまいました。
藤原家の権力が大きい中、忖度せずにはっきりと物事を伝えることができる方で、まさに、できるリーダー、政治家!といった印象でした。
しかし、やはり権力には勝てず、左遷されてしまい、亡くなるところが非常に悲し気です。しかし、その後「学問の神様」として祭られるというエピソードが添えられることで、カッコよさを感じます。
存命中には報われなくとも、歴史上に名前を残すというのは、すごいことですね!
藤原道長
日本の歴史は基本的にいろいろな歴史上の出来事が書かれていますので、一つ一つのエピソードが短く詰め込まれています。藤原道長はそんな中でも3巻の中では多く登場する人物の一人です。
平安時代に政治の栄華を極めたと書かれていますので、当然なのかもしれません。
頭脳明晰で人望もあるが、兄がいるため出世できない状況の中でも、行動力で権力を手にしてしまう様子がかっこいい!
最後は和歌をうたいながら終わるところがキザです🤨
まとめ
このきじでは『角川まんが学習シリーズ 日本の歴史』より 第3巻「雅なる平安貴族 ●平安時代前期」のあらすじや注目人物について、ご紹介しました。いかがでしたでしょうか?
平安時代前期は、藤原家が栄華を極めて、雅な国風文化が貴族に広がりました。また、この後の時代に活躍していく武士が勢力を増してきた時代だったことがわかりました。
今後も『角川まんが学習シリーズ 日本の歴史』シリーズの他の巻についても書いていきますので、更新をお待ちください。
以上。よろしくお願いいたします。
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