【角川まんが日本の歴史】河村瑞賢はなにをした人!? ~9巻「江戸幕府、始動 ●江戸時代前期」
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角川まんが日本の歴史シリーズ 第9巻「江戸幕府、始動 ●江戸時代前期」について、あらすじと見どころをご紹介します
この記事の後半で、河村瑞賢がなにをした人物なのか、ということについても書いています
日本の歴史シリーズは、日本のいろいろな時代について学ぶことができる本です。受験勉強としても使えるレベルの本です。
日本の歴史シリーズに関する紹介はこちらをお読みください。
第9巻「江戸幕府、始動 ●江戸時代前期」あらすじ
タイトル一覧
第9巻「江戸幕府、始動 ●江戸時代前期」のタイトルは以下の通りです
1章 徳川家康と江戸幕府
・江戸城と幕藩体制
・第二代将軍 徳川秀忠
・発展する江戸の町
・大阪冬の陣・夏の陣
2章 家光と天下太平の世
・家康の死
・第三代将軍 徳川家光
・諸大名と参勤交代
・厳しい身分制度
3章 江戸幕府と国際関係
・朱印船貿易
・キリスト教の弾圧
・島原・天草一揆
・鎖国のはじまり
4章 産業の発達と新しい技術
・琉球とアイヌの人びと
・航路の発達
・新しい農業技術
・江戸の庶民の暮らし
あらすじ
1章 徳川家康と江戸幕府
- 1603年徳川家康が江戸幕府を開き、幕藩体制を敷く
- 徳川家康は将軍をわずか2年余りで譲り、大御所として政治にかかわった
- 大坂夏の陣、大坂冬の陣の2度にわたる戦の末、豊臣家は滅亡した
関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、1603年征夷大将軍となり江戸に幕府を開きました。江戸幕府では各地を「藩」として大名に治めさせ、その頂点を幕府とする「幕藩体制」を敷きます。ほかにも大阪・京都など重要地を幕府の直接支配としたり、厳しい決まりを定めて、従わない大名は改易・減封するなど、大名と社会をうまくコントロールしていきました。
また、徳川家康は、徳川家の天下が続くことを世に知らしめるため、将軍をわずか2年あまりで子・秀忠に譲ります。そして大御所として政治を行っていきました。
江戸城下では町が発展。土地を埋め立てて広くしたり、道が整備されて人や物が行き交いやすくなりました。
また、人々は幕府が定めた身分制度により住む場所、衣服、髪形などが細かく制限され、身分の違いを意識するようになります。
豊臣秀吉の妻・淀殿、子・秀頼は徳川幕府となったのちも、豊臣家に天下を取り戻すように狙っていました。1614年豊臣の動きを警戒した徳川家康は大阪城総攻撃を命じます。大坂冬の陣の勃発。激しい攻撃に豊臣方は和議に応じることにしましたが、講和条件に反し、幕府側はさらに大阪城の外堀だけでなく内堀まで埋め立ててしまいます。講和の約束を破ったことに腹を立てた豊臣方は挙兵し、1615年大坂夏の陣となりました。豊臣方はこの戦いで敗北し、豊臣の血は途絶えてしまいました。
1章に登場する徳川家康を主人公にした、2023年スタートする大河ドラマ「どうする家康」を予習したい方はこちらの記事をご参照ください。
2章 家光と天下太平の世
- 江戸幕府では法度が整備され、天皇においても厳格に守らせ、幕府の権威を高めた
- 家光はのちの春日局の助力により将軍となった
- 1年ごとに参勤交代が行われ、各藩は将軍に従う姿勢を見せた
1616年家康は朝廷から太政大臣に任命されましたが、その1か月後75歳で亡くなってしまいました。家康の遺体は日光東照宮に葬られ、東照大権現として祭られています。
江戸幕府では身分ごとに3つの法度(武家諸法度、禁中並に公家諸法度、寺院法度)を整備しました。第2代将軍・徳川秀忠は幕府の法度を厳しく守らせ大名を取り締まりました。幕府の許しを得ずに僧侶に紫衣を与えた後水尾天皇に対しても、厳しく咎めました。禁中並公家諸法度では紫衣を与えることは禁じられているためです。この紫衣事件により、幕府の法度が天皇の命令よりも優先される、ということが世に示されました。
第2代将軍・徳川秀忠に次いで、第3代将軍となった徳川家光。幼いころは口下手で病弱で、活発な弟・忠長にいつも圧倒されていました。父・徳川秀忠や母・江も家光よりも忠長をかわいがり、秀忠の世継ぎは忠長とささやかれて育ってきました。家光の乳母・お福は駿府城の家康を尋ね、家光を跡取りとするよう秀忠に助言してほしいと懇願します。家康はお福の熱意に押されその話を承諾し、秀忠に「長幼の序をわきまえよ」と伝えます。この経緯を知っている家光は、自分こそ天下泰平の象徴だと考え、その思いを背負いながら政治を行っていきました。家光を将軍にするため働きかけたお福はのちに春日局と呼ばれ、大奥の実権を握った人物です。
徳川家光は幕府の政治体制を整えました。幕府の政治は老中が行い、若年寄がそれを補佐する政治体制を整理。またこれまでと同様、大名へは厳しく決まりを守らせ、破った場合は身内であっても改易しました。徳川家光は将軍として圧倒的な権威をもち政治を行っていったのです。
江戸時代には参勤交代という制度がありました。各藩の大名は1年ごとに江戸と自分の国を行き来しながら幕府の務めをしていく、という制度です。江戸と自分の国を行き来する道順は幕府に届け出なければならず、行列の人数も決められていました。大名行列は庶民が一種の見世物として見物することはできましたが、行列の邪魔をすると無礼討ち(武士が無礼を働いた庶民に処罰)となりました。
大名は幕府から江戸に土地を与えられ、江戸藩邸を設けていた。江戸藩邸は「上屋敷」「中屋敷」「下屋敷」と江戸城までの近さなどから呼び分けられており、屋敷の広さや門構えなども家柄や大名の石高により決められていました。江戸にいる間は江戸城の警備や土木工事などの仕事を命じられ、また決まった日に登城しなければならず、官位に応じた衣服を身に着け、所定の作法で将軍に挨拶をしました。勤務は月に十日ほどで、休みは江戸名所を歩いたり、句会をしたりして過ごしていました。
参勤交代での往復や江戸での生活費で大名は財力を下げることになりましたが、江戸と地方の交通が発達していきました。各大名は参勤交代で将軍に従う姿勢を見せ、大金を使って大勢のお供を連れていくことで自分の藩の力を誇示することができました。
江戸時代の身分制度においては、「武士」が最も身分が高く、名字を持つことを許されたり、働きに応じて米や領地を大名から与えられました。次いで町に住む商人や職人である「町人」。その下の「農民」は幕府に服装や食事まで決められ、作った米はほとんど年貢として納められる厳しい生活でした。
3章 江戸幕府と国際関係
- 江戸幕府の初期は朱印船貿易や南蛮貿易が行われた
- 家光の時代にキリスト教への弾圧を強め、鎖国へ突入する
- 長崎ではオランダや清に港が開かれ、貿易を行っていた
江戸幕府では、南洋のシャム、ルソンと行う朱印船貿易やスペイン、ポルトガルと行う南蛮貿易が行われました。朱印船貿易は幕府の渡航許可証「朱印状」を持った船のみと貿易を行うもので、南蛮貿易はスペインやポルトガルなどの南蛮船との貿易のことです。貿易でやってきたキリスト教徒がキリスト教を布教するデメリットはありましたが、外国との交易による利益をもたらすため家康は貿易を許可していました。
明の生糸を購入する代金として日本の銀が使われました。銀の海外への流出を抑止するため家康は「糸割符制度」を導入。「糸割符制度」とは、貿易を管理し生糸の価格を調整するための制度のことです。京都・堺・長崎などの特定の商人に「糸割符仲間」を作らせ、輸入生糸の価格決定とまとめ買いを許可。仕入れた大量の生糸を国内の商人に売るというもの。これにより外国の商人は糸割符仲間にしか糸を売ることができず、日本に有利な価格で買うことができるようになりました。
外国との貿易をしばらく続けていくうちに、キリシタン達の動きを気にした家康は、1612年に「禁教令」を出し、布教禁止と南蛮寺の破壊を命じました。また、第2代将軍・徳川秀忠の時代には貿易船が入れる港を長崎と平戸に限定。第3代将軍・徳川家光の時代には、朱印状に加えて「奉書」という許可証を持った船以外の日本船が海外に出るのを禁止。さらに、外国に5年以上住んでいる日本人は帰国できなくなりました。
日本では鎖国へ向けた動きを活発化。特にキリスト教徒への弾圧が厳しくなりました。1637年島原地方では藩主である松倉氏からの年貢の取り立てに苦しんでいました。この状況を知った天草四郎(益田時貞)は農民たちと手を組み反乱を起こします(島原・天草一揆)。一揆に対し、一揆軍が立て籠もる原城への砲撃をオランダに依頼します。これにより1638年幕府軍が一揆軍を制圧しました。島原・天草一揆の後、家光はキリスト教の取り締まりを強化。キリスト教を広めない国とだけ貿易をするようにしました。1641年平戸のオランダ商館を出島に移すと、オランダと明以外は船の来航が禁止され、200年に及ぶ「鎖国」の時代が始まっていくのです。
長崎の出島は1634年から2年かけて長崎に造られた人口の島で、ポルトガル人を集めた特別区として貿易を行った場所でした。キリスト教への取り締まり強化により、ポルトガル人が追放されると、オランダとの貿易窓口として利用されるようになりました。出島に入れる日本人は商人や通訳、役人、使用人などだけでしたが、来航したオランダ人が海外の情報をまとめて幕府に提出した「オランダ風説書」は老中たちの手に渡り、貴重な海外の情報源となっていました。長崎では清の商人が住む唐人屋敷がありました。オランダや清とも貿易でのつながりがあった長崎は、この時代の日本では珍しく世界に開かれた貴重な貿易港だったのです。
日本が鎖国をしている間、スペイン、ポルトガル、オランダ、イギリスなどの諸外国は高い航海技術で盛んに海を渡り、アメリカ大陸や東南アジアなど世界に進出。彼らの目的は中国の生糸、絹織物、陶磁器、茶、東南アジアの香辛料。アメリカ大陸の金。スペイン、ポルトガルはキリスト教の布教も目的としていました。各国は武装した船団を送ってアメリカやアジアを植民地化していきました。鎖国していく日本とは対照的に、積極的に海外へ進出していきました。
4章 産業の発達と新しい技術
- 江戸時代には琉球王国やアイヌを支配した
- 河村瑞賢により交易航路が整備され、品物が日本各地を行き交った
- 江戸には各地の名産が集まり商売が盛んに行われた
1609年薩摩藩は幕府の許しを得て琉球王国を征服。以降将軍や琉球の王が変わるたびに、薩摩藩の島津氏は琉球より慶賀使という使節を江戸に送らせました。薩摩藩は琉球王国に対し、明へは琉球王国がいまだに独立国家であるようにふるまうことを命じ、朝貢貿易を続けさせました。朝貢貿易で琉球が得た品物は、薩摩藩が取り上げて日本国内で売り、利益を上げていきました。
日本国内での交易も盛んになり、蝦夷地でとれた昆布などを松前藩がアイヌから買い付け、琉球などへも運ばれました。しかし、アイヌは松前藩としか取引できないよう制限され、品物を安く買いたたかれる現状に対し不満を持っていました。シブチャリの首長シャクシャインは各地のアイヌに呼びかけ、武器を手に立ち上がり、1669年シャクシャインの戦いが勃発。松前藩から講和を持ち掛けられ話し合いに応じたシャクシャインでしたが、松前藩の罠で講和中に殺されてしまいました。
活発になっていく国内交易や年貢米の運輸など、品物の流れを支えたのが各種航路とそこを行き来する廻船(輸送船)です。大阪から江戸へ生活物資を運んだ菱垣廻船、大阪で作られた酒を江戸に運んだ樽廻船、江戸中期~明治前期商品を売り買いしながら回った北前船、などがありました。航路は、東北から江戸へ行く東廻り航路と、東北から大阪へ行く西廻り航路があり、この航路を開いた人物が河村瑞賢です。
河村瑞賢は江戸で起こった「明暦の大火(1657年)」において、土木工事の日雇いの仕事などでためた金で木曽の山林の木材を買い占め、その材木を江戸の復興に充て、莫大な利益を得ました。
江戸時代では、農業技術が発展し新田開発も盛んに行われました。新たに切り開かれた新田は数年間は年貢が免除され、農具や肥料も免除です。農民は年貢を納めるために米を作っていましたが、作った米の半分ほどは年貢に持っていかれる貧しい生活でした。さらに飢饉で年貢を納められないどころか飢え死にするものもいました。この暮らしに一揆を起こしたり、大名に直訴する者もあらわれました。
江戸時代の貨幣は、江戸では金、上方では銀が多く使われました。江戸と上方の取引の際には、「両替商」がその時の金と銀の価値により交換してくれます。金銀の流通が盛んになると江戸の三井や大阪の住友、鴻池など両替商として成功する豪商が現れました。彼らはお客の金を預かったり、借り換え業務などを行え、明治時代以降は銀行として金融業務を行うようになっていくのです。
河村瑞賢はなにをした人!?
河村瑞賢とは
河村瑞賢は伊勢国度会郡東宮村に生まれ、13歳になると江戸に出て土木工事などで貯めたお金で材木商を営みます。明暦の大火では木曽の山林を買い占め、土木・建築を請け負って復興に尽力、莫大な利益を得ました。その後幕府や諸大名からの依頼により数々の公共事業を成功させます。角川まんが日本の歴史9巻にも登場し、江戸時代の商いや農業、庶民の文化などを解説してくれています。
若いころは漬物を販売していた!?
お盆の時期に品川の海岸付近に漂着していた茄子や瓜を拾い集めて、塩漬けにし販売して利益をあげたと言われています。これはお盆の時期になると仏壇やお墓にお供えをする精霊馬、精霊牛に使った茄子や瓜を川に流して処分していたものだと思います。
拾い集めた野菜で作ったわけですから、仕入れのお金は0円です。歴史に名を残す人物でも若かりし頃は苦労して頭を使いながら稼いでいた、ということがわかるエピソードですね。
東廻り航路と西廻り航路の開拓
商人として成功したのち、幕府や諸大名からの依頼で公共事業を手掛けます。有名なのは東廻り航路や西廻り航路の開拓です。それまでも米を上方や江戸へ運ぶ輸送航路はありましたが、何度も積み替えが必要で非効率であるため輸送日数がかかり、米が傷んでしまう問題点がありました。そこで瑞賢は各地を調査して従来の輸送における問題点を洗い出し、東廻り航路、西廻り航路を開拓していったのです。
瑞賢が行った工夫の一例としては、以下のようなものが挙げられます。
・航海経験の豊富な民間船を利用(官民の役割分担を明確化)
・気象状況や海の状況などを見極め最適な航路を選択
東廻り航路、西廻り航路の開拓により、交易が盛んにおこなわれるようになり、この時代の経済に大きな影響を与えました。江戸時代の大型プロジェクトにおけるプロジェクトリーダーとして、既存の考えに捉われず、今あるリソースを活かして最大限の成果を出したといえます。とても優秀なリーダーだったのではないでしょうか。
河村瑞賢瑞賢公園の河津桜
河村瑞賢の生誕地である三重県の南伊勢町に、河村瑞賢公園があります。河村瑞賢公園には河村瑞賢の功績をたたえて銅像が建てられています。
また、河津桜の名所で2月中旬から3月上旬が見ごろとなります
江戸時代の大型プロジェクトリーダー・河村瑞賢が江戸時代の商売や生活の様子を解説してくれる場面はこちらで読めます↓↓↓
まとめ
角川まんが学習シリーズ 日本の歴史9巻についてご紹介しました。
江戸時代のはじまりのころのお話で、初代将軍・徳川家康から3代将軍徳川家光が登場します。この先も長く続いていく江戸幕府の礎を作った人たちで、将軍の権威を高めて、厳しく大名を管理することで世の中を安定していたということがよくわかりました。
琉球や蝦夷なども含めて日本中での交易が盛んにおこなわれるようになった時代でもあり、河村瑞賢は日本各地を結ぶ輸送航路を開拓した人物でした。江戸時代の様々な功績を称えて、生誕地の三重県南伊勢町の河村瑞賢公園には銅像が建てられています。江戸時代の大型プロジェクトリーダーの功績を讃えるため作られた公園で、いつか訪ねてみたい地の一つとなりました。
以上。よろしくお願いいたします。
江戸時代が始まる前の戦国時代についても記事を書いています↓↓↓↓
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