【角川まんが日本の歴史】明治維新のすべてがわかる!渋沢栄一も登場! ~12巻「明治維新と新政府」

2021年6月27日

お疲れ様です。あかいあくまです😈

ご紹介あかいあくま

角川まんが日本の歴史シリーズ 第12巻「明治維新と新政府」についてあらすじと、この本を読んで理解できること、見どころをご紹介します

目次

第12巻「明治維新と新政府 ●明治時代前期」あらすじ

タイトル一覧

第12巻「明治維新と新政府 ●明治時代前期」のタイトルは以下の通りです

1章 戊辰戦争と明治維新
 ・王政復古の大号令
 ・戊辰戦争、始まる
 ・江戸城無血開城
 ・明治維新

2章 富国強兵への道
 ・版籍奉還と廃藩置県
 ・四民平等と文明開化
 ・学問ノス-メ -学制の交付
 ・徴兵制と地租改正

3章 新政府の外交
 ・富岡製糸場、できる
 ・岩倉使節団の派遣
 ・欧米諸国との格差
 ・征韓論をめぐる対立

4章 西南戦争 -維新の終わり-
 ・沖縄県の設置と北海道の開拓
 ・清・朝鮮との関係 -国境確定
 ・士族の反乱
 ・西郷隆盛と西南戦争

あらすじ

1章 戊辰戦争と明治維新

1章でわかること

  • 江戸幕府が終結し、天皇中心の政府を設立した
  • 旧幕府軍vs新政府軍で戊辰戦争が勃発
  • 元号が「明治」にかわった

大政奉還の後、明治天皇を中心とした新たな政府を作り政治を行うことを宣言する「王政復古の大号令」が発せられた。新政府発足後の最初の会議(小御所会議)において、徳川慶喜へ辞官納地とする処分が決定。政権を失った徳川慶喜だったが、諸外国からはこれまでの実績もあり信頼を得ていた。この情報を知った大久保利通と西郷隆盛は徳川に対し危機感を抱く。旧幕府側の不満を利用した西郷隆盛の工作をきっかけとして戊辰戦争のはじまりとなる。

鳥羽・伏見の戦いにおいて、兵力で勝る旧幕府軍だったが、新政府軍は最新式の銃や大砲を駆使しにより優勢となっていく。また、新政府軍が錦の御旗を掲げたことで、徳川慶喜を含め旧幕府軍の士気が低下した。形勢が不利と見た徳川慶喜は密かに江戸へと逃げ帰ってしまう。新政府軍は徳川慶喜を追い詰め、江戸城総攻撃のため江戸へ進軍していた。慶喜の幕臣である勝海舟は、江戸城総攻撃の前に最後の会談を持つべく、西郷隆盛へ書状を送り会談することに。徳川慶喜の謹慎や江戸城の明け渡しを降伏条件として合意、新政府側が降伏条件をのむ形で江戸城総攻撃は中止となった(江戸城無血開城)。戊辰戦争の敗北により徳川は政治から完全に身を引くことに。

新政府は「五箇条の御誓文」を発表し、新たな国づくりを始めていたが、各地での戊辰戦争はまだ続いていた。
会津藩では白虎隊による抵抗、蝦夷・函館では旧幕府側の榎本武揚が五稜郭を中心に新たな国を作ろうとしていた。しかし、ここでも圧倒的な戦力の差に五稜郭は開城、戊辰戦争は終結した。

1868年8月明治天皇が即位、元号を「明治」とした。

2章 富国強兵への道

2章でわかること

  • 廃藩置県、四民平等など新たな施策を打ち出した
  • 富国強兵で欧米に負けない国づくりを目指した
  • 農家ではこどもたちが「学生」に基づき学校へ通いだし、「兵制」により平民でも兵隊になった

時代は明治となったが、江戸時代からの「藩」に対する人々の意識は変わらず、日本は一つの国になり切れていなかった。藩を廃止して改革を行っていくべきという木戸孝允と、改革を急がず慎重に進めるべきという大久保利通が対立。大久保利通は、急激な改革を行うと、各藩主による不満が起こることを懸念。西郷隆盛はこの状況に、新政府の威信となるよう「御親兵」と呼ばれる軍隊を結成。1871年7月「廃藩置県」が行われた。

明治からこれまでの身分制度が無くなり、天皇・皇族以外の身分は原則として平等であるとした。(四民平等
街や人々の様子も変わり始め、銀座ではレンガ造りの建物が多くなり、人々の服装や髪形は、洋装、ざんぎり頭となった。(文明開化

一方、明治政府では「日米修好通商条約」が不平等であったため、この改正と西洋文明の視察を目的として「岩倉使節団」が1871年12月横浜港より出発。岩倉使節団メンバー不在の間、留守政府の人びとは「富国強兵」政策に従い、改革を進めた。

「富国強兵」で、経済を発展、軍隊を強くし欧米列強へ対抗しようという考えで、基本方針は「国の基は、学制・兵制・税制」。「学制」について、福沢諭吉の「学問ノススメ」にもある通り、すべてのこどもたちは学問をする権利があり、教育を受けさせるのは親の義務。国を豊かにするためには、教育が重要であり、全国に学校を整備して、全員が教育を受けられるようにした。農家ではこどもは働き手であり、授業料の負担もあることから、反発も多かった。
2つ目「兵制」について。1873年「徴兵制」が公布。武士が兵隊となるのではなく、国民が自分の国を自分で守る、という制度。当初、免除規定により兵役を免除されることもあったが、1889年に免除規定が廃止、国民皆兵となる。富国強兵の基本方針3つ目「税制」。1873年地租改正により、税は米から現金で納めることとなった。地価の3%を現金で納めるのは農民には負担が大きかった。

3章 新政府の外交

3章でわかること

  • 渋沢栄一を中心に鉄道や通信、工業などが発展した
  • 岩倉使節団が欧米各国を視察
  • 朝鮮政策の考え方の相違に岩倉使節団と留守政府で対立が起こる

1872年9月新橋~横浜間で鉄道が開通するなど、新政府は「富国」実現のため鉄道や通信を整備。全国各地では官営工場が操業を開始(殖産興業)。大蔵省官僚の渋沢栄一は日本の産業・経済を発展させ「日本資本主義の父」と呼ばれた

欧米12か国を訪問予定の岩倉使節団は、1872年1月最初の目的地のアメリカ・サンフランシスコへ到着。岩倉使節団は岩倉具視や大久保利通、伊藤博文、留学生なども参加。使節団は宿に案内されると、日本とは異なる環境に一同驚愕。豪華な内装、エレベーター、きれいな水の出る水道など。岩倉使節団の目的は、不平等な日米修好通商条約を改正することにあったが、交渉の過程で、天皇の全権委任状が必要であることが判明。日米修好通商条約の改正交渉には失敗した。使節団の目的は条約改正から欧米諸国の視察に切り替えた。

アメリカには7カ月滞在し、ボストン港からイギリスへ渡る。イギリスにおいても鉄道網の整備状況や工場における製品の大量生産技術を視察。そのほか、議会制民主主義のやり方を学んだり、ヴィクトリア女王への謁見などを行った後、フランス、ベルギー、ドイツを歴訪。ドイツでは帝国宰相ビスマルクと会う。小国が大国と渡り合うドイツのやり方に感銘を受け、その後の日本の政治に強い影響を及ぼした。

欧米を歴訪中の岩倉使節団に、日本から朝鮮との外交危機について手紙が届く。朝鮮との関係が悪化しているという内容。使節団メンバー不在の中、政治を取り仕切っていた西郷隆盛など留守政府のメンバーたちは、なかなか帰ってこない使節団に不信感を持っていた。1873年8月留守政府の閣議では、副島種臣、西郷隆盛を使節として朝鮮へ派遣し朝鮮政府と話し合いを持つ方針を決めた。同年10月、岩倉使節団が帰国。朝鮮に対する政策について、岩倉使節団メンバーも含めて再度閣議が開かれた。閣議では、帰国した岩倉使節団メンバーを中心とした国内の財政、軍備を整えることを優先すべきという考え(内政充実論派)と、留守政府中心の征韓論派が対立。対立の間に挟まれ太政大臣の三条実美が心労で倒れたため、代理の岩倉具視により、内政充実論派の意見が天皇陛下へ奏上されることとなった。8月の閣議で決定した方針が覆されたことに対し、西郷隆盛は参議を辞任。この「明治6年の政変」により大久保利通が政権の中心を担うことになる。

4章 西南戦争 -維新の終わり-

4章でわかること

  • 大久保利通が内政を取り仕切った
  • 琉球、ロシア、朝鮮などとの外交関係に一定の決着がつく
  • 士族の不満から西南戦争が勃発
  • 維新の三傑が亡くなる

大久保利通は1873年11月内務省を設置し、自身が初代内務卿となる。内政について幅広く担当する様子に権力の集中を懸念した板垣退助は、議会を作って議会政治を行うことを求めて活動(自由民権運動)。

明治より琉球藩となっていた琉球では、未だに続く清との関係への政府の対応として、沖縄県を設置する「琉球処分」が行われた。

北方では樺太をめぐるロシアとの争いに、北海道(蝦夷)の開拓を進める黒田清隆は樺太の放棄を主張。北海道を開拓した方が国益にかなうと考えた。1875年に「樺太・千島交換条約」がロシアとの間に結ばれ、樺太全島を放棄、千島18島が日本の領土となった。北海道では士族を対象に入植希望者を募り、自給自足の生活をしながら屯田兵として北方の警備にあたる政策をとった。

朝鮮との関係においても進展。1875年に日本の軍艦が朝鮮から砲撃を行われたことに端を発し、日本側が応戦、永宗島(ヨンジョンド)を占領。この事件をきっかけに1876年「日朝修好条規」を結ぶ。この内容は日本に有利な不平等条約だった。朝鮮はこの後欧米とも不平等条約を結ばされ、鎖国状態を解禁していく。清では日本が朝鮮を武力で開国させていったことを快く思っていなかった。

1876年、士族への米や現金の支給を廃止する秩禄処分、帯刀を禁止する廃刀令が発布された。士族は徴兵制で武士の役割を平民に奪われ、さらなる特権の取り上げに不満を増大。各地で起こる士族の反乱に対し、大久保利通は鹿児島にある陸軍倉庫の弾薬を運び出すことを命じる。この動きに刺激された私学校の生徒たちが政府側を襲撃。これまで地元・鹿児島で士族の不満を何とか抑えていた西郷隆盛は遂に挙兵することを決意、西南戦争へ突入していく。西郷軍は熊本城を包囲するが、政府軍の抵抗に攻撃は難航。熊本城は包囲したまま、主力は北上させることに。北上した西郷軍は、田原坂で政府軍と激突。士族中心で接近戦に優れる西郷軍だったが、17日間の攻防の末、西郷軍は政府軍の奇襲により田原坂より敗走した。包囲されていた熊本城も、山川浩陸軍中佐が率いる政府軍選抜隊によって包囲が破られた。

西南戦争のさなか、木戸孝允は病気により体調を崩し亡くなっていた。また、西郷隆盛は劣勢の状況に敗北を悟り、大隊長を務めた別府晋介に自らの首をはねさせた。この後、日本での最後の内戦となった西南戦争は終結。さらに1878年不満を持った士族により大久保利通は暗殺される。「維新の三傑」と呼ばれた、木戸孝允、西郷隆盛、大久保利通は相次いでこの世を去っていった。

この本を読んで理解できたこと

  1. 明治天皇を中心に新たな政府を作り、政治を行っていくことを宣言した1867年の王政復古の大号令から、1878年大久保利通が暗殺されるまでの、明治維新の流れ
  2. 士族が四民平等や廃刀令など特権を取り上げていく政府に対し、どんな感情を抱いて各地で反乱を起こしていたのか
  3. 富国強兵政策により、農家では学校へ通うようになったり、税が米から現金に変わったり、また兵役を課せられるようになったり、と生活が様変わりしていく様子と、それに対する農民たちの反応
  4. 2021年放送の大河ドラマ「晴天を衝け」の主人公である渋沢栄一が登場、富国強兵政策の中、日本の経済発展に貢献
  5. 明治政府の中心的なメンバーだった西郷隆盛が政府から離れ、西南戦争を始めることになる流れ

見どころ ~明治維新をめぐる対立3選~

明治維新では、日本を改革する思いの強い人が多く登場します。その思いの熱さゆえに、しばしば対立が起こりました。その対立の中から3つご紹介します。

徳川の処遇について 岩倉具視vs山内容堂

新政府を作り天皇を中心とした政府で政治を行なっていくことを宣言したのち、旧幕府の将軍であった徳川慶喜の処遇として、辞官納地(官職を辞め、領地を朝廷へ納める)をさせようとする岩倉具視と、これまでの実績を評価し反発する山内容堂が対立。西郷隆盛の武力を行使してでも改革をしようという姿勢に山内容堂側が折れて、徳川慶喜の辞官納地が決定する。

保護者の方へ

この対立からは、旧体制を排除して急速に改革を進めていくことの難しさを知ることができます。

徳川を排除して改革しなければ!、という新政府側の考えはとてもよく理解できます。また一方で、これまでの実績を評価して今後の政治に関わってもらいたい、という気持ちも理解できなくはないです。改革で旧体制を排除をする際は、必ず反発が起こり、それにどう対処するか。といった改革の難しさです。

では、小学生くらいの年齢のこどもがこの背景を完全に理解することができるのでしょうか…?

おそらく難しいと思います。そもそも「改革」ってどういうこと?、という感じです。こどもにわかりやすく伝えるのであれば…

いつもは家庭での学習が宿題を30分程度のこどもに、「今日から毎日宿題に加えて、塾に通って2時間勉強しなさい!」「お小遣いから10%は貯金しなさい!」「ご飯の支度とお風呂掃除はお手伝い!」と様々な家庭での改革案を指示される感覚かと

朝鮮政策 岩倉使節団vs留守政府

日本が欧米化し出したことに朝鮮が反発したことが原因で起こる対立です。反発する朝鮮に対して、留守政府は大使を派遣して朝鮮を武力で制することも辞さない態度を決めます。それに対し、欧米諸国のインフラ、工業、軍事でのレベルの差を肌で感じ、まずは日本を欧米に追い付くレベルにするため、内政を先に充実させるべき、という意見の岩倉使節団メンバー。

岩倉使節団は2年間ほど日本を離れていました。2年間という長期にわたる欧米諸国での刺激は相当なものだったと想像できます。また、留守政府においては、使節団と書状でのやりとりはあったと思いますが、2年間も待たされたという思いがあります。その両者が意見が合わないのも当然ではないでしょうか。
その間に挟まれた三条実美が心労で具合悪くなるのも理解できます…。

四民平等をめぐる改革 士族vs明治政府

明治政府では「四民平等」を掲げ、武士は士族となって、農民とも同じ身分と言われました。その後も、秩禄処分や廃刀令により特権を取り上げられるなど、急速な改革に対し徐々に不満をため込んでいました。この新政府に対する不満は、西南戦争を引き起こすことになります。

第12巻の中で、最も熱い登場人物が西郷隆盛です。どの場面においても自分の考えを貫き通して改革を進めるという信念を感じます。この信念と士族たちの不満が重なり合ったときに、西南戦争へと突入してく様子がとてもよく描かれていました。

西郷隆盛の最期の場面。西南戦争での劣勢の状況に、西郷隆盛は大隊長を務めた別府晋介に対し「晋どん、もうここらでよかろ」と話し、敗北を悟る。別府晋介は「西郷どん、ごめんなったもんし!」と言いながら西郷の首をはねます…。

引き際を心得た最期だったように思います。

西郷隆盛の名場面はこちらです↓↓↓

まとめ

角川まんが学習シリーズ 日本の歴史12巻 をご紹介しました。なんとなく知っているつもりの明治維新ですが、様々な思いを持った人々が日本を欧米に負けない国にしようと一生懸命に考え、行動していく様子がとてもよくわかる本でした。

日本の歴史シリーズでは、日本のいろいろな時代について学ぶことができる本です。受験勉強としても使えるレベルの本ですので、ぜひ読んでみてください。

日本の歴史シリーズに関する紹介はこちらをお読みください。

以上。よろしくお願いいたします。