【土方歳三】新撰組の剣術は今も続いている??
お疲れ様です。あかいあくまです😈
司馬遼太郎の「燃えよ剣」の主人公として有名な新撰組の土方歳三。新撰組では鬼の副長としておそれられました。そんな土方歳三の剣術流派は天然理心流です。
天然理心流は江戸時代にできたと言われ、現在も続いているようです。
土方歳三だけでなく、新撰組の近藤勇、沖田総司など名だたる人物が修行していた天然理心流とはどのような流派なのでしょうか?
- 天然理心流の歴史
- 剣術の特徴
- 天然理心流が輩出した歴史人物
- 現在も天然理心流は続いているのか?
目次
天然理心流とはどんな剣術?
歴史
江戸時代後期の寛政年間(1789年~1800年)の初期に遠江(静岡県)出身の剣客である近藤内蔵之助が天然理心流を創始しました。この頃の道場は道場は両国薬研堀(東京都中央区東日本橋)にあったと言われています。
2代目・近藤三助は天然理心流免許を受け、跡取りのいなかった初代の養子となり、天然理心流を受け継ぎます。初代・ 内蔵之助が亡くなる直前に枕元に三助を呼び寄せ、人払いを命じて気合術の奥義を伝授した…という逸話が残っています。残念ながら、この奥義は三助が46歳で急死したことにより途絶えてしまいました。
三助にも跡取りがいませんでしたので、3代目以降は系統が分かれていくことになります。江戸の道場で3代目となったのが、近藤周助でした。天保10年(1839年)江戸市谷甲良屋敷(新宿区市谷柳町)に試衛館という道場を開きました。
嘉永元年(1848年)には試衛館に宮川勝五郎という人物が入門します。勝五郎は翌年には天然理心流の目録を受け、腕を見込まれ周助の養子となりました。これが近藤勇の誕生です。文久元年(1861年)に勇は4代目として襲名披露の試合を行いました。その後、天然理心流道場の試衛館にて沖田総司、土方歳三らと出会い、新撰組を結成していくことになります。
特徴
天然理心流は剣術のみではなく、居合術、柔術、棒術なども含んだ総合武術です。新撰組と言えば剣術のイメージがあるので剣術に特化した武術かと思いましたが、天然理心流はいろいろな武術を扱っているようです。
天然理心流の関連人物
土方歳三
土方歳三は若いころから石田散薬という薬を行商しながら、各地の道場を回って剣術修行をしていました。安政6年(1859年)に天然理心流に入門します。そこで近藤勇とであるのは前述のとおりですが、他にも天然理心流の門下生や食客として試衛館(天然理心流の道場)へ出入りしていた、沖田総司、山南敬助、斎藤一…など後に新撰組でともに戦う人物と出会っていきます。
ちなみに剣術の腕前は良かったようですが、様々な流派の混じった癖の強い剣術だったため、3代目周助は歳三を目録に留めていたとも言われています。
そんな土方歳三が好んで使っていた和泉守兼定とはどのような刀なのでしょうか
沖田総司
土方歳三が天然理心流の道場に出入りするようになる前から、沖田総司は天然理心流の内弟子となっていました。剣術の腕前は師範の近藤勇や、土方歳三らを上回るものだったそうです。
佐藤彦五郎
佐藤彦五郎は東京日野宿の名手・佐藤家の当主で、妻が土方歳三の姉・のぶでした。また、佐藤彦五郎自身も天然理心流に入門していました。新撰組の後援者として、組の活動資金を工面することもありました。
現在の天然理心流
天然理心流の剣術
天然理心流は現在も伝承されています。公式サイトもあり、入門案内がありますので、実際に入門してけいこを受けることができるようです。
試衛館
道場自体は無くなってしまいましたが、試衛館跡の標柱を見ることができます。
まとめ
土方歳三の剣術流派である天然理心流についてご紹介しました。
江戸時代に近藤内蔵助により創始され、4代目師範には新撰組の局長となる近藤勇がいました。天然理心流の道場・試衛館には、土方歳三や沖田総司など後の新撰組で活躍するメンバーが多くいました。
現在でも天然理心流は受け継がれていて、実際に入門することもできます。江戸時代から続く剣術を今でも伝えているというのはすごいですね!
天然理心流の道場・試衛館に関しては現存はしません。しかし、試衛館の跡地には標柱が立てられており、その場所を伝えています。
以上。よろしくお願いいたします。
ディスカッション
コメント一覧
まだ、コメントがありません