【新撰組】どういう組織だったの?局長、副長、助勤…?

2022年2月3日

お疲れ様です。あかいあくまです😈

幕末に徳川幕府側の京都の治安維持組織として活躍した新撰組。当初は浪士組と呼ばれ、関東の道場から寄せ集められた浪士集団でした。しかし、局長の近藤勇や副長の土方歳三などが、厳しい規律を元に浪士たちを統制し、幕府に直接仕えるまでに成長させました。

そんな新撰組の組織は6年間の活動の中で、組織を改編して活動してきました。この記事では新撰組の組織がどんなものだったのか、局長や副長以下の役職を組織図を用いて説明します。新撰組の歴史の中でも3つの時期に分けてご紹介していきます。

まんが日本の歴史11巻にも新撰組は登場します。

新撰組の近藤勇、土方歳三、沖田総司などがであったのが、天然理心流道場の試衛館でした。天然理心流は現在まで続いています。


目次

①壬生浪士組

新撰組という名前を使うまでは壬生浪士組として活動をしていました。

清河八郎が、将軍の上洛を警護することを名目に幕府に掛け合い、関東各地の道場から腕の立ちそうなものたちを集めます。この中にはやがて新撰組の中心となる近藤勇、土方歳三などがいました。

その後、清河八郎は真の目的が将軍の警護ではなく攘夷であることを明かし、集団が分裂してしまいます。その中でも、芹沢鴨、近藤勇が中心となって結成したのが新撰組の前身組織である壬生浪士組でした。

新撰組というと、日本の剣豪を集めたエリート集団のようなイメージですが、始まりは腕に覚えのあるものたちの寄せ集め集団、と言った方が近いかもしれませんね。

この頃の組織は図の通りです。芹沢鴨率いる芹沢一派と近藤勇率いる近藤一派の大きく2つのグループがありました

局長は、芹沢一派から芹沢鴨と新見錦、近藤一派から近藤勇の3名体制。その下の副長として、近藤一派か、土方歳三と山南敬介となっています。局長クラスに芹沢一派の2人が入る代わりに、副長は近藤一派だけとして、バランスを取る組織体制です。

壬生浪士組は、この後京都守護職となっていた会津藩主の松平容保と繋がり、会津藩お預かりの新撰組となります。

②伊東甲子太郎一派入隊

新撰組の名を使い始めた頃、新撰組内部は芹沢一派と近藤一派で大きく2つに割れていました。芹沢鴨は酒癖が悪く、隊の規律を乱すような行為も目立っていたためです。その後、芹沢鴨は暗殺され、芹沢一派だった者たちもは一掃されることになります。

近藤一派が中心となった新撰組は池田屋事件で一躍有名になります。そして、更なる体制強化のため、江戸で隊士を募集しました。そこで入隊したのが、伊東甲子太郎です。

伊東甲子太郎が入隊した時の組織は以下の通りです。

局長、副長は息の合った近藤勇、土方歳三のコンビ、新加入の伊東甲子太郎は組長となりました。

各組長の配下に伍長と平隊士が属する形となりました。以前の組織では、出動する毎に隊士を選抜して引き連れて行く形ですが、1番隊、2番隊のように隊のメンバーを決めて統制する組織になりました。

③長州征討へ向けた組織改編

薩摩や長州などの勢力の強い藩が、幕府や朝廷に対して、大きな影響を及ぼすようになり、世の中が大きな変革を迎えようとしていた頃、新撰組も幕府にとって大事な組織となっていました。

尊王攘夷派の動きが激しかった長州征討へ幕府が動き始めていたため、新撰組も組織改編を行い、体制をさらに強化しました。

隊士も130名ほどいたと言われていて、10人の組長を配しました。まさに新撰組の全盛期の頃の体制です。

参謀に伊東甲子太郎を任命しました。新撰組はこの頃、単なる武力集団ではなく、近藤勇が幕府に対して政治的な意見をするなど、幕府での地位も向上していました。伊東甲子太郎は頭脳明晰で弁も立つことから、参謀として、近藤からの信頼が厚かったようです。

その後…

薩摩と長州が手を組み、さらに坂本龍馬が駆け回って徳川幕府は朝廷に政権を返すことになりました。その後、徳川への処遇に対する不満から戊辰戦争へと発展していきます。

新撰組は旧幕府側として、戦いに参加しますが、鳥羽伏見の戦いで敗戦します。体制を立て直そうと近藤勇や土方歳三は奮闘しますが、近藤勇は流山で捕縛された後に処刑。土方歳三は箱館まで新政府軍と戦い続けましたが、箱館にて戦死。旧幕府軍の降伏と共に新撰組の歴史も終わりました。

まとめ

壬生浪士組で始まった新撰組の歴史。初期のころは局長に芹沢鴨や近藤勇が並ぶ形で組織されていました。やがて芹沢一派が一掃されると、近藤勇、土方歳三、沖田総司など、近藤一派が新撰組の中心を担うようになります。

隊の規模が大きくなると、局長に近藤勇、副長に土方歳三を配し、以下、1番隊、2番隊…と各隊士を組に分け、各組に組長を置きました。

長州などの尊王攘夷派の過激な活動が目立ってくると、頭脳明晰な伊東甲子太郎を参謀として、政治的な活動も行うようになりました。

その後、新撰組は箱館戦争での降伏をもって終焉を迎えます。

6年ほどの活動期間でしたが、ここまで短期間でただの浪士組だった近藤勇や土方歳三が幕府で高い地位まで上り詰めたことを考えると、かなりの大出世です。新撰組という組織のために、情勢に合わせて組織を改編しながら活動していったことで、幕末に名を馳せていたと考えられますね。