足利尊氏|室町幕府将軍の意外な素顔とは?
お疲れ様です。あかいあくまです😈
室町幕府を開いた足利尊氏
初代将軍を務めた尊氏の性格はどうだったのか?
素顔に迫ります!
足利尊氏が幕府を開き後醍醐天皇率いる南朝との対立の結末は??
- 足利尊氏が将軍になるまでの経緯
- 将軍になった後に起こった弟・直義との確執
- どんな人柄だったのか?
- 足利尊氏の最期は?
- 足利尊氏は現在どこで眠っている?
足利尊氏の経歴
足利尊氏は鎌倉時代から室町時代の武将で、室町幕府の初代征夷大将軍となった人物です。
将軍まで上り詰めた足利尊氏はどんな道のりを辿ってきたのでしょうか?
経歴をまとめました。
幕府御家人から後醍醐天皇側へ
鎌倉幕府の御家人の1人だった足利高氏。当時の執権・北条高時の「高」を貰って高氏と名乗っていました。
後醍醐天皇が倒幕を計画し、京都の笠置山に立てこもった際、足利高氏は幕府の命によりこれを陥落します。
しかし、後醍醐天皇が再び倒幕を呼び掛けると、幕府から後醍醐天皇側へ寝返ります。新田義貞とともに幕府に反乱を起こし、足利高氏は京都にある幕府内組織の六波羅探題を攻め落とし、鎌倉幕府を滅亡へ導きます。
笠置山の戦いにおいて高氏は父を亡くしたばかりでした。父の喪中であることを理由に出陣を辞退しようとしていた高氏を無理矢理戦わせた幕府に対して不満を持ったことが原因ともいわれています。
鎌倉幕府滅亡に貢献した足利高氏は、後醍醐天皇の諱「尊治」から一字を貰い足利尊氏と名乗ります。
建武の新政への不信感
倒幕後、後醍醐天皇は建武の新政を始めます。しかし、建武の新政において公家や貴族を優位にする方針に尊氏は不信感を持ちます。
1335年に北条氏の起こした中先代の乱で鎌倉が占領されます。当時、鎌倉将軍府にいた尊氏の弟・足利直義は危機に陥ります。尊氏は後醍醐天皇に鎌倉への出陣を訴えます。が、尊氏を行かせてしまうと鎌倉へ留まり幕府を開くことを懸念した後醍醐天皇はこれを拒否します。それでも、あきらめきれない尊氏は天皇の許しを得ないまま出陣。見事、中先代の乱を鎮圧します。
足利尊氏は、中先代の乱の鎮圧で成果を上げた武士たちに報いるため、恩賞を配布することを決めました。勝手に恩賞を与えだした尊氏の行動は、後醍醐天皇の怒りを買うことになります。
この出来事を機に尊氏は武士からの支持を集めます。
室町幕府の初代将軍
中先代の乱を鎮圧後、鎌倉にとどまっていた尊氏は、建武の新政に対して募った武士たちの不満を伝えることを決意します。まずは、後醍醐天皇に取り入っている新田義貞と戦うことにしました。
後醍醐天皇は尊氏の行動に対し、建武の新政に対する反乱であるとみなします。そして尊氏を朝廷の敵、つまり朝敵として、尊氏の討伐を新田義貞、楠木正成へ命じました。
朝敵にされたことで尊氏はショックを受けました。一時は出家することを決めますが、弟・直義に説得され再び戦うことを決めます。後醍醐天皇により廃位とされていた光厳上皇から新田義貞討伐の院宣をもらったことも後押しします。院宣の効果もあり、尊氏のもとには兵が集まってきました。そして1336年湊川の戦いで朝廷軍を破ります。
1338年尊氏は光明天皇より征夷大将軍に任命され、室町幕府が本格的に始動していきます。
弟・直義との確執
幕府の政治は弟・直義と権力を分け合って行いました。軍事指揮権と恩賞権は尊氏、政務全般は直義が担い、幕府を運営していました。
足利兄弟によりうまくいっているように見えた室町幕府ですが、足利家の執事であった高師直が兄弟間に亀裂を入れることになります。
高師直は幕府内で発言力を高めており、直義のやり方に対し反発するようになっていったのです。そして、ついには、直義の退任を求めてクーデターを起こしました。これを機に直義は政務から外されてしまいます。
直義の怒りは尊氏へ向けられます。出家して隠居の身となった直義でしたが、隠居先を抜け出し、幕府と対立関係にあった南朝の後村上天皇のもとへ向かいました。そして、南朝との和睦と尊氏の討伐への協力を依頼しました。
足利家同士の兄弟対決、観応の擾乱の幕開けです。
南朝の協力を得た直義軍は、尊氏・師直軍と摂津や播磨においてぶつかり相次いで勝利します。尊氏は敗北の続く状況に直義との和睦を決意。師直を出家させます。
終結したかに見えた戦いでしたが、直義が幕府の政務に復帰したのちも、尊氏、直義の周囲の人間を含めての争いが水面下で続きました。尊氏が自分に味方する家臣ばかりを優遇するため、再び直義は幕府から離れます。
直義との戦いにあたり、今度は尊氏が南朝の後村上天皇のもとへ向かいます。そして、南朝側に有利な条件での南北朝の一時的な統一と引き換えに、直義との戦いに協力することを要請。後村上天皇はこれを承諾します。(正平一統)
尊氏はこの後、直義軍との戦いに勝利します。直義は鎌倉の寺に幽閉され、そのまま亡くなってしまいました。病死とされていますが、尊氏による暗殺だったとも言われています…
最期
観応の擾乱は平定しましたが、南朝との争いは続きました。尊氏が留守の間に、正平一統を破り、南朝方の軍が攻め込んできたのです。この頃は、尊氏は息子・足利義詮と共に幕府を統治していました。
南朝との戦いにおいて、北朝にいた上皇や皇太子数名が連れ去られる事態となりました。京は義詮がすぐに奪還しますが、北朝の正当性が一時失われました。
南朝と北朝との対立、直義派の残党との戦いが続くさなか、1358年に足利尊氏は53歳で亡くなります。墓所は京都の等持院にあります。
足利尊氏の人柄を表す3つの事柄
足利尊氏の人柄については、梅松論の中で夢窓国師が語った内容が書かれています。
3つあげられていますので一つずつ見ていきましょう。
戦で恐れ知らず
第一に、御心が強く、合戦の際に身命を捨てたまうべきところにたびたび臨んだが、笑みを含んで畏怖の色が無い。
梅松論 現代語訳 http://muromachi.movie.coocan.jp/baisyouron/baisyou50.html
尊氏はいくつも激戦を戦ってきて、危ない目にもあっているはずです。戦いの最中に「笑みを含んで」とはなかなか常人には理解できない域に達しています。
緊迫感のある戦いの中で、リーダーが常に落ち着いて判断を下していたら、部下としては心強いことこの上ないですね。
尊氏はそんなリーダーだったのかもしれません。
人を憎まない
第二に、慈悲天性にして、人を憎まれることがない。怨敵を、まるで我が子のように許される。
梅松論 現代語訳 http://muromachi.movie.coocan.jp/baisyouron/baisyou50.html
京都に天龍寺というお寺があります。このお寺は足利尊氏が後醍醐天皇が崩御した際に、後醍醐天皇の菩薩を弔うために建てました。後醍醐天皇が崩御したのは、尊氏が征夷大将軍に任命された翌年の1339年です。当時は、尊氏が建武の新政に対して反発し室町幕府を開き、後醍醐天皇は奈良・吉野に逃れて南朝と北朝に分かれていた時代。尊氏は後醍醐天皇と対立関係にあったわけですが、この寺を建設します。しかも、この寺を建設する資金捻出のため、天龍寺船と呼ばれる船を用意して貿易を行うほどの熱の入れようです。
人を憎まない、とありますから、鎌倉幕府の御家人から後醍醐天皇の倒幕側へ寝返った時も、後醍醐天皇や弟・直義と戦う時も、私利私欲や野望などではなく、慕ってくれている周囲の人の状況や世の中の情勢を見ながら、判断していくタイプだったのかもしれません。そのため、後醍醐天皇自体を憎んではおらず、過去の出来事は顧みずに純粋に供養したのではないでしょうか。
戦った相手でも思いやりを持つ姿勢があることで、数多くの戦いで共に戦ってくれる仲間が集まってきて将軍にまで昇り詰めることができたのでしょう。
気前が良い
第三に、御心、広大にして、ものを惜しむことがない。金銀土石をも同じように思し召して、武具御馬などを人々に下される時は、財と人とを見比べられることもなく、御手に取ったままに下される。八月朔日などに諸人の進物が数知れず集まったが、すべて人に下されたので、夕方になると何も無くなっていたと聞いたことがある。
梅松論 現代語訳 http://muromachi.movie.coocan.jp/baisyouron/baisyou50.html
部下たちは命をかけて戦ってくれているわけですから、それに報いる恩賞を与えることで人心をつかんでいたようです。
中先代の乱を鎮圧した際にも、後醍醐天皇の建武の新政下でしたが、勝手に貢献した武士たちに恩賞を与えてしまいました。また、幕府でも政務の中心は弟・直義に任せていましたが、恩賞権は尊氏が持っていました。
しかし、自分のものがなくなるほど与えてしまうとは…
現在足利尊氏が眠る場所は?
等持院(京都)
足利尊氏の墓があるのは、京都の等持院。
足利将軍家の菩提寺で、足利家の歴史を語り継ぐ重要な文化財が数多く残されています。
長寿寺(鎌倉)
尊氏の邸宅があった場所に建立された長寿寺。初代鎌倉公方・足利基氏が父である尊氏を弔うために建てたと言われています。
まとめ
今回は室町幕府・初代将軍となった足利尊氏の人柄について書きました。
元は鎌倉幕府の御家人だったわけですが、幕府に反旗を翻し後醍醐天皇側へ付き鎌倉幕府滅亡へ追い込みます。その後は後醍醐天皇の始めた建武の新政に対しても反発、一時は朝敵となりますが、室町幕府を開き初代将軍となりました。その後も弟・直義と対立するなど激動の人生を送ります。
常に危険な戦いを送ってきた尊氏だったわけですが、戦では恐れ知らず。笑みを浮かべるほどの余裕があったと言います。そして、対立して戦をした相手に対してさえ憎むことがありませんでした。さらに、家臣に対しては自分の手元には残らないほど恩賞をたくさん与えました。
まさに理想的なリーダーと言える人物だったようです。
以上。よろしくお願いいたします。
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